2014年02月

2014年02月28日

★兄弟貯金★ 2014年2月収支

1月から繰越  4,648,126

プラス
・ひー 10,000
・りー 5,000
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 計  15,000

マイナス
・りー立替(樺太本1050、2/3ランチ6,368、MAC他1910)9328→9,000 
================
 計  9,000  

3月へ繰越 4,654,126
 

読んでくださって、ありがとうございました



at 06:13|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 兄弟貯金 

2014年02月27日

えこ叔母、要介護2!

きーから連絡があり、えこ叔母が要介護2で、
早速ディサービスに通うとのこと。
父の入院騒ぎでは、要介護1の母を支えてもらったのに、
たった1年で要介護1の母を追い抜いてしまった。

母を基準にすると、えこ叔母の方が、
・身体能力が衰えている
・怒りのボケで対応が大変
ということだろうか。

この1年、母の新しい暮らしを支えるのに精一杯で、
えこ叔母ときーを気遣う余裕がなかった。
えこ叔母自身の哀しみと、きーの苦労を思うと胸が痛い。。

「介護の正解」はない。
えこ叔母と娘二人が、たくさん笑って過ごせますように。

読んでくださって、ありがとうございました



at 06:17|PermalinkComments(0)TrackBack(0) ひとりごと 

2014年02月25日

母の結構診断結果&ジョバンニの島

ひーくん、ぶーくん

グループホーム川で実施した「健康診断」
が送られてきました。基本的に殆どAの素晴らしい結果で一安心。留意事項は3点。
1)体重38.5kg:やせ気味
2)γ-GTP 89:基準値10-55に対し軽度異常
3)心電図で低電位差:経過観察

低電位差とは
「心電図の波の高さが低く、心臓の電気的興奮が弱いか、または皮膚の表面に伝わりにくい状態や、皮下脂肪が厚い場合にも起こります。所見が単独であればあまり問題ありませんが、他の所見や疾患が合併している場合は、総合判定の指示に従ってください。」


宮沢賢治の童話『銀河鉄道の夜』をモチーフとした、太平洋戦争末期から終戦直後の色丹島を舞台に、ソ連の占領に伴い激変した島民の暮らしをとある家族の視点で描く。
樺太と第2次世界大戦にちょっぴり詳しくなったところにちょうど良く?公開されました。なーにまず「銀河鉄道の夜」を読ませてから、連れていこうと思います。ぶー息子&娘ちゃんもどうかな?



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at 05:49|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 兄弟メール 

2014年02月24日

ソ連に追われ、米軍に撃たれた

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ひーのメール
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今日もいつものイタリアン。風はやや冷たかったが、2週前と異なり、母の機嫌は上々。お見舞い前のハーモニカ演奏慰問がきいていたのかも。

今日は母は昔町時代のことを話したがった。「東北バッパは、生活保護をうけたことを義理と感じ、M叔父に『税金を払える男になれ』と教え ていたのに、嫁いでみたら、『借金はしても税金は払うな』という、逆の世界が待っていた」など、興味深い話を何度か。

母の話の中に、時々混じった樺太話。しつこいかもしれないが(笑)、私には興
味があるので、以下紹介。

1.「樺太を離れたのは、あたたかい時期だった」---6~7歳の子供に暖かいと感じられるのは10℃以上と推測される(今日の昼の温度が 10℃)。樺太で10℃を超えるのは『6月から9月』。この4ヶ月間のどこかで樺太を脱出した。

2.「樺太を離れたとき、街の人は皆残っていた。一足お先に、という感じだった。おばばの船1隻にのって、静かに真岡港を離れた。港に変わっ たことはなかった」---『母は真岡引き揚げの混乱を経験していない。』まさに、ひとあしお先に、の脱出だった。これにより、脱出は『終戦 前』と確定された。1とあわせて、1945年6月-1945年8月のどこか。

3.「脱出前、街の人はロスケ(ロシア人)が来ることを噂していた」---これにより、たいして目先がきかなくとも、「樺太が危ない」ことは 庶民レベルで認識されていたことがわかる。終戦前の脱出が不合理ではないことの傍証。そういうことになる原因は、1945年4月5日の『ソ連 による日ソ中立条約の破棄』と見るのが妥当。おばばもこれで、脱出を決意したのではないか?

4.「おばばの船は途中一回、大きな港、そうそう『函館』(この地名は、こんな感じで、母にしっかり残っていました)に寄って、米などを積み 込んだ。『この後』、飛行機からばりばりと銃撃を受けた」---これにより、『銃撃は函館まではくらわなかった』こと、言い換えれば、函館以 後(津軽海峡以東)で受けていたことが確定。終戦前にソ連軍が津軽海峡まで来ていることはありえない(もしそうなら、北海道は占領されてる (笑))ので、やはり、銃撃は北海道空襲の一環として米軍によって行われた。ゆえに日時も確定=やはり、7/14-15日。


今日の母の話を総合すると、「1945年の6月下旬か7月上旬、『終戦前』に、真岡港からおばばの漁船1隻にのって樺太を『一足お先に』脱 出。ところが、1945年7月の14-15日に、不運にも、(想定外の)米軍の北海道空襲とはちあわせ。函館以東で機銃掃射をうける」という 仮説に矛盾することは何もありませんでした。私の中では、何かケリがついた気がします。
  
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at 05:30|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 母自伝--1)樺太 

2014年02月23日

母を撃ったのはソ連か米軍か

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ひーのメール
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どうもご苦労さまでした。

同じ話をきいても、やはり、それぞれの関心のポイントは微妙にずれるものですね。たとえば、私は「母が銃撃されたこと」に強い関心がある。母 が覚えていないので、「いつ誰が撃ったのか」を自分で補い考えることが面白い。終戦直後の引き揚げなら、函館付近で母を撃ったのはソ連ではな く、アメリカの可能性大。りーやぶーには、「どちらにしても」の話かもしれないが、「下手人」は誰かは、はっきりさせたいと私は思う。

終戦直後であれば、手を下したのはアメリカ海軍第38任務部隊で、北海道空襲に使われた3,000機の艦載機の一機が母たちをおそったことに なる。当時、ソ連は函館まで飛行機をまわす余裕はなく(樺太侵攻の真っ最中)、母たちを撃てない。

結局、母たちは「ソ連に追われ、アメリカに撃たれた」と思われます。むろん、当時も今も、母はそう思っていなかったろうけど。

N町時代の話は、これまで断片的にきいていたものとよく整合する。どうもありがとう。ここで私が気になるのは、戦後闇市との関係。母の雄勝の 生活と戦後の闇市とがどう連関していたかが気になるところ。

明日は、施設長の依頼で、少し遅れて面会に行きます。11時すぎまでハーモニカの演奏会をやるそうな。また、イタリアンにでもいこうかな。
  
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at 05:20|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 母自伝--1)樺太 

2014年02月22日

思い出すと涙!の居候時代

ひーくん、ぶーくん

今日も母と散歩&MACラテ。引き揚げ時の話を再度聞くと、ソ連からの襲撃、母は小二というので「終戦直後の引揚」の可能性が高そうです。

ひーくん、
N町時代。樺太に比べて記憶がはっきりしている様子。土曜に行ってくれるそいうですね。訂正・追加情報があれば是非お願いします。


<人間関係>
F町のおばば家:おばば×(おじじ存命不明)、養女T代×夫、その息子(母の結婚相手だったかも)
F町の東北バッパ実家:東北バッパ母、東北バッパ兄×妻、その子3人位
F町の東北バッパ家(東北バッパ実家の納屋6畳に居候):東北バッパ、たー伯母、えこ叔母、S叔父(T伯父はI町魚加工所へ就職?)
N町のスズキヒデコ家:東北バッパ妹×夫(石切)、その子・N子達3人位、居候の母
O町の東北バッパ姉家:東北バッパ姉×夫(農家)、その息子1人、居候のM叔父

<位置関係>
F町→2.8km(徒歩40分)→N町→17.3km(徒歩3時間46分)→O町
F町→35.3km(徒歩7時間46分)→I町

<物語>
樺太から東北バッパ実家の6畳程度の狭い納屋に東北バッパと子供6人は身を寄せた。やり手のオババはF町でも漁業をやりだし、おばばやくらじが納屋にくると、東北バッパにお金や食べ物を渡してくれるのが、母は子供ながらに嬉しかった。東北バッパ母は食物を運ぶなど心を配ってくれたが、「また樺太へもっていったのか」と東北バッパ兄嫁に叱られるような戦後の厳しい食糧事情だった。

東北バッパはやむなく、長男・T伯父をI町魚加工所へでっちへ出し、母をN町の妹宅、M叔父をO町の姉宅へ居候に出し、幼児エッコとマサオの育児を10歳のチヨに任せ、東北バッパ自身はF町の海産物を捕り、それをO町の農家に嫁いだ姉のもとへ運び、米などと交換することで家族の糧を稼いだ。

小学校2年生から東北ジッジが帰ってくる5年生まで、N町の東北バッパ妹宅に居候することとなった母。石切で日銭を稼ぐ夫と母と同い年のN子を筆頭に3人の子供の5人家族もまた日々の食べるものに苦労する家だった。母にはN町での小学校には通ったのか通わなかったのか殆ど記憶がない。東北バッパ妹には、母は可愛い姪というよりも、厄介なクイブチに思えても仕方がなかった。

眠る時はN子と一つの蒲団を分け合った。でも、家族5人が同じ方向に枕を並べる中、母だけは逆向きで、肩が敷布団からも掛布団からも出てしまう。冬はせめて座布団でも欲しいと思ったが、そんなことは言い出せなかった。

家事もN子は何も言いつけられない。山の薪拾いも全て母。母は山で一人で薪になる木を探して拾った。自分しかする者はいないので、工夫してたくさん紐でしばって山をおりた。

でも、何より辛いのは、家族5人とは差別をされて、いつもひもじいこと。ある時、叔母がでかけた時に、高いところにおいてあったオヒツに手を出して食べようとした瞬間、忘れ物をしたのか戻った叔母に徹底的に怒鳴りつけられた。(この話を思い出した際に、母は涙!)

母の救いはN町の家のスグ上にあるお寺だった。叔母家には風呂がなく、このお寺さんのお風呂をもらっていた。お寺は檀家から貰い物が多い上に、広い畑をもっていて、常にふかし芋があるなど食べる物には不自由していなかった。10人くらいの子沢山でもあり、母が一人でも背中に背負い子守をしていれば、昼食・夕食を出してくれた。お寺さんでご飯を食べ風呂まで入って帰れば、後は寝るだけ。厄介者と冷たいそしりをうけずに眠ることができたのだった。

東北バッパがF町の海産物を背負って一日かけてO町に物々交換に行く際に、N町によって母も荷物を背負って一緒にいくことがあった。N町での日々が哀しくて辛くて、母東北バッパに泣く泣く打ち明けた。しかし、わが子の味方をしてくれると思っていた東北バッパに「妹の悪口を言うな」と一括されたことは本当にショックだった。その後、母は1度たりともN町の愚痴を東北バッパに言うことはなかった。

O町からは寂しく暗い道を4時間近くとぼとぼ帰る道だったが、O町に居候するM叔父は、東北バッパと母を見送るのが何よりも辛かったと言う。M叔父もまた、同い年の男子がいる家で相当苦労したらしい。母とM叔父、居候仲間の二人の絆は同じ兄弟でも強くなっていった。

 

読んでくださって、ありがとうございました



at 06:11|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 母自伝--2)東北N町 | 兄弟メール

2014年02月21日

我が家のルーツ

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ぶーのメール
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母が生き残っていなければ我々は今ここに存在しなかった訳で、今ここに生きていることのありがさを実感しています。

「歴史」といえば、T新聞から取材のあった”ひいじいちゃん”の話を自慢していた父を思い出します。あと、本当かどうか定かではありませんが、祖母がよく話しをしてくれたのですが、我が家の先祖がもともとは平安時代のW氏にゆかりのある者という話を思い出します。

父や母の小さい頃のリアルな話をあまり聞いたことがなかったので、本当に身近な歴史には興味がいかなかったのですが、我が家の本当のルーツはどこだったのかという点には今も興味がありますね。

 

読んでくださって、ありがとうございました



at 05:48|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 兄弟メール 

2014年02月20日

母は北海道空襲に遭遇!?

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ひーのメール
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メールありがとう。母の引き揚げ年齢は難しいところだね。しかし、機銃掃射をくらったという一点だけでも、「昭和20(1945)年夏の樺太 撤退」はいい線と思う。

ところで、いままで機銃掃射した相手を「ソ連」と思い込んでいたけど、実は「アメリカ軍」の可能性高し。7月14日~15日は北海道空襲の日でもありました。これは盲点だった。

上のHPには、「函館市、小樽市、帯広市、旭川市や戦略上全く意味のない農村部も攻撃され、一般市民を中心に死者2,000人を超える被害を 出した。 また、この空襲を通じて、千島列島から北海道、北海道から本州を結ぶ航路の船舶も攻撃対象となり、多くの船が撃沈または大破の被害を受け、ほとんどの航路 が機能を失った」とある。母の機銃掃射の記憶は、歴史に残るイベントだったのかも。よく生きていてくれた!

ただしそのとき母が尋常小学校1年生だったか、2年生だったかはよくわからない。りーの言う通り、満6歳時の撤退なら1944年になって しまう。でも1944年では、ソ連は勿論(←日本と戦っていない)、アメリカ軍の北海道への空襲もはじまっていないので、「機銃掃射をうけ た」こと自体にちょっと無理がでる。

樺太撤退時に母が1年生だったなら、何らかの事情で樺太での小学校入学が遅れたのかもしれないね。「東北では尋常小学校2年生から」というの は何度か母から聞いた。終戦間際~直後の混乱で、学制が相当混乱していたのかも。


一周忌---「ぶー号で母をホームに連れて行く。私も同乗」 今回はこれでいきましょう。問題がでれば次回に修正すればよし。

風邪と雪---皆さん、ご注意を。雪は水曜にもまた降るらしいし。

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at 06:12|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 兄弟メール | 母自伝--2)東北N町