2014年02月
2014年02月19日
父一周忌へむけて
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ぶーのメール
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りーさん、大丈夫ですか。
我が家の前の路地は今朝は雪かきされていないところを中心に50m位アイスバーン状態で動くに動けん状態でしたが、お昼近くになってやっと氷が緩みなんとか夏タイヤでも動けるようになってきました。2週続きの雪でさすがに冬タイヤやチェーンは用意しておかなければだめだなということで、早速ネットでタイヤチェーンを手配しました。(もっとも、これまで用意していなかった方が問題なのですが。。)
昨日の時点でグループホーム川への欠食届けは見合わせたので、母の食事は大丈夫です。バタバタしましたが今週は中止させていただきます。
次は3/1の予定。
3/9は一周忌ですね。食事、卒塔婆の手配はしておきます。いつも3月の彼岸特にお寺に護持会費を納めているので、3/9に併せて支払いをするということで良いでしょうか。
また、先日の申し送りどおり、寺での会食後母の送りはひーくんと私でグループホーム川に送るという段取りで良いですかね。
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2014年02月18日
母一族物語(推定)
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ひーのメール
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以下、ご参考。
母が小学校1年(満7歳)で樺太撤退ということならば(前は数7歳と聞いた)、東北時代以降の年代は見当がつけやすい。
1945(昭和20)年 母小学1年生(満7歳)
F町についたこまよ一家は、母をN町、正義さんをO町の親戚にあずける。母のN町での苦難の生活(小1夏~小5夏)がはじまっ た。N町には母と同年のN子さんという娘がいたが、地域の色々な「役」をこの子にはさせないで、すべて母にやらせた。母がこまよさんに不平 をいうと、「わたしの妹の悪口をいわないで」とぴしゃり。以降、母は不平をいうのをやめた。N子さんは後日、スナックを経営したらしい。名 振で母の行商「納豆売り」開始。いつからはじめたかは不明。こまよさんは「ニコヨン」と呼ばれた「どかた」で頑張った。
1949(昭和24)年 母小学5年生(満11歳)
東北ジッジが復帰。背景にはたぶん、1949年(昭和24年)6月1日の樺太庁廃止がある。東北ジッジ復帰を機に、一家はF町を出てI町へ。母 の小学校移転はこれに関係。I町小学校に入学するが、行商は大変だ し、上記のいじめはあるしで、良い記憶はあまりなし。行商づけの生活の中、東北ジッジ死亡。月々3千円の生活保護をもらう。当時としては、これは屈辱的だった。
1953(昭和28)年 母中学3年生(満15歳)
貧乏なので、中学校の修学旅行(東京行き)に母は行けず。姉のたー伯母は行った。しかし、つい浮かれて小遣いを使い果たし、東北バッパに 「なぜ使ってしまった」と涙の説教。このこともあり、母の修学旅行は、同様の境遇にあった5名とともに、これまた屈辱の「S市ツアー」。これ で「いつか東京に出てやる」と決意。
1954年(昭和29年) 母 満16歳
中学卒業、S商店へ。
一家がいつから樺太にいたかは難しい。ごく大ざっぱに見積もってみる。
195X年に東北ジッジ死亡(いつだっけ?)。享年4X歳(だっけ?)。大工だったらしいので、たぶん18歳~20歳までは親方のもとで修行。 それから独立もかねて樺太に行ったと仮定すると、20代前半が、樺太移住時の東北ジッジの年齢。東北ジッジ死亡時の年(195X年)から推定定住期間(死亡4X歳-移住2X歳 = 大体20年間樺太にいた)を引くと、移住の年代として1930年代前半という線がうかぶ(母 が生まれた1938年には確実に樺太にいたので、移住が「1930年代後半」というのはややきつい)。
去年なくなったがT伯父84歳。ということは、生まれたのは1929年。T伯父は北海道生まれと聞いたことがあるので、 少なくとも1929年までは樺太にはいなかったとみなせる。ここからも、移住年代1930年代前半はいい感じか。昭和がはじまるのが1926 年。ざっといって、大体、昭和のはじめごろ、江良家は樺太に移住したのではないかな。
樺太移住の年代は、怪しい点多し。りーさん、ヒマなときに適当に補正してください(笑)。
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2014年02月17日
雪で見舞中止
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ぶーのメール
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まさかの2週連続の大雪ですね。我が家の近所も路地にびっしり雪が残っており車がでれそうにありません。幹線道路に出てしまえば問題はなさそうなのですが、幹線道路にたどりつくまでの路地がひどく冬タイヤをはいていない我が家の車では無理そうです。
りーさんの家の近所の道路は大丈夫ですか。
そんな状況なので明日の訪問は中止させてください。
2014年02月16日
母自伝「樺太編」完成
ひーくん、ぶーくん
昨日も散歩&ラテをして、母に「樺太編」の確認をしてもらいました。「その通り!よくかけている」とオホメノ言葉をいただきました(笑)
何かありましたら、率直なご意見をもらえたら嬉しいです。
そうそう、ひーくん訪問時の場所認識の混乱ですが、「雪景色で、樺太を思い出した」と言っていました。最近、樺太のことばかり話していたので余計に混乱したかもしれません。
母自伝「樺太編」
北海道の北、凍てつく樺太にはアイヌなど先住民族がいたが、幕末以降、日本とソ連の取合いとなった。日露戦争後、日本の領地となった南樺太には、国の政策で北海道や東北から勇敢な開拓者が移り住み、昭和十年には三十万人を超える発展ぶりだった。
樺太庁真岡支庁本斗群本斗町阿幸(おこう)。樺太では珍しく製紙工場を背景とせず、漁業を中心に発達した町だった。鎌倉時代に日時上人が日蓮宗布教に訪れた地であることが、後の一家の信心深さに繋がる。
この阿幸の港前に、宮城県の漁師町から移り住んだオババは大きく立派な二階家を構えていた。家の一角は郵便局もかね、鰊や昆布を捕り内地へ運ぶ船も6艘あった。やり手のオババには子がなく、髪結いの亭主たる夫の妾が産んだ娘を養女としてはいたが、故郷・宮城から姪の東北バッパを呼び寄せ可愛がっていた。
東北バッパは北海道出身の大工の東北ジッジと結婚して次々と子をなしたが、すぐに死んでしまった子もいて、母の8才上の長男T伯父を筆頭に、1才上のたー伯母、母本人、2才下のM叔父、4歳下のえこ叔母、6歳下のS叔父と3男3女がのこった。
東北バッパ一家の家がオババの港の家からしばらく町へひっこんだ所に建てられた。家の一角では東北ジッジが木を細工したおもちゃや花を売っていた。氷点下何十度で年の半分も家は雪に埋もれたが、西洋式の大きなストーブがあって暖かかった。ラジオもあった。
おそらくオババの援助が大きかっただろうこの家に、オババはよく来ていた。オババの手土産だったのか、家には美味しい干しバナナが度々あった。消防団長を務める東北ジッジが家の横にあった火の見櫓から、この黒いバナナをまくと、近所の子どもが競い合ってとりあったものだった。
オババの船が昆布をとってくると、大きな昆布を一本一本船からおろし、港の砂利に広げるのが東北バッパの子供たちの仕事だった。目の前に広がる冷たい海で泳いだことはなかった。オババは母の働きぶりや気立てを気に入り今すぐ養女に欲しいと強く望んだが、東北ジッジは大きくなってからだと譲らなかった。
東北ジッジは神社の境内で子供たちと相撲をとったり、家の中で手作りの木の汽車を走らせたり、母と二人で汽車に乗って真岡に子供達の洋服を買いにいくなど子煩悩な反面、家事に育児に店番に忙しい東北バッパが絶対服従する強く怖い人でもあった。
オババの後押しで何不自由なく暮らす一家だったが、長男T伯父が本斗水産学校に通い、長女たー伯母に続いて母も家からそう遠くない阿幸国民学校に通う頃には、第二次世界大戦の暗雲がたちこめた。
北樺太だけでは満足しないソ連の侵攻を恐れ、現金のほか全てを捨て、東北ジッジだけを残し、おばばの船底にオババ一家と東北バッパと6人の子供がかくれた。子供が泣く毎にソ連軍の銃撃をうけながらも、命からがら、函館を経由して、故郷・宮城に逃げたのだ。
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2014年02月14日
グループホーム川の値上げ
ひーくん、ぶーくん
消費税upに関連し、グループホーム川から「共益費と食費の値上げ」の連絡がありました。
共益費15,000→15,861円 5.7%up ※便乗値上げ?(笑)
一日の食費1,450→1,489円 2.7%up
致し方ないので、「了承」の書類を出しますね。
2014年02月12日
人生の勝負どころ
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ひーのメール
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きーさん
(Cc:りー)
りーから連絡があり、おばさんがアルツハイマーと認定されたと聞きました。数年前のことを思い出します。さぞ、ショックをうけていることでしょ う。きーの哀しさの1/3くらいはわかるつもりです。しばらくして落ち着いたら、このメールを読んで下さい。
今は、昔のことや、「どうしてお母さんがこんなことに」とか、「これからどうしたらいいのだろう」ということが、頭に浮かんでは消えるという感じ かもしれません。お母さんとどう暮らすかは、もちろんきーとまーの判断です。以下は似たような状況にある親戚からのささやかな助言と思ってくだ さい。
1.仕事はやめない方がよい
介護はお金がかかります。しかも長期戦(~20年)になりかねません。20年たてば、君も60近くになります。収入の道を確保した上で、できるだ けのことをする。これが基本です。
2.ひとりでかかえこまない
介護は大仕事です。一人でやって、がんばりすぎると、2年くらいでガス欠になります。私の妻の親戚がまさにそうなっています。まず、まーに連絡、 相談してください。そして、どんな形であっても「ふたりの親だから、ふたりでみる」ことを確認してください。
3.ひとりでおかない方が良い
認知症の患者さんをひとりで置くことは、本人を不安にさせるし、なにより症状をすすめてしまいます。はじめは嫌がっても、人が大勢いる中においた 方がよい。これは、父の遺言でもありましたが、実際、我々の母はホームに入れることで、大体はうまくいっています。健康状態もよくなりました。症状はなおりませんが、「明るく呆けて」くれています。えっこおばさんも人の中にいた方が、楽しいし、楽しまれるタイプと思います。ホームに入れる ことは、自分たちのためだけでなく、おばさん自身のためにも考えた方がよいと思います。
4.ふたりきりにならない
2,3と関係しますが、在宅できーひとりが介護すると、おばさんの頼りはきーだけ。すると、不安にかられたおばさんは、ものすごい妄想とともに、 きーの行動を強く縛りはじめます。どこにも行ってほしくない。自分だけを見てほしい。これが妻の親戚に起こっていることです。しかし、それでは、 きーが働きに行くこともできなくなります。少なくとももうひとり、できればまーがいた方がよい。無理なら、やっぱり、ホームに入れることを考え るほうがよいです。
ということから、私は、
1.おばさんを施設に入れる
2.施設は近くの施設として、週に1回はきーかまーが会にいけるところにする
3.どんな形であれ、仕事は続ける
4.経済的負担について、正直にまーと相談する。まーの力を借りる。我々も「兄弟貯金」をつくって、母の介護にあてています。
5.おばさんを施設に入れるときは「ひとりでは大変になったから、面倒をみやすい場所に引っ越す」と考える。きーが仕事を続けられるなら、まー の近くにおばさんとともに引っ越すことも考える。何なら、りー町に来てもよい。
....とアドバイスします。まーやりーともよく相談して。
ここはきーの人生の勝負どころです。何かあったらメールでも電話でもしてください。
えこおばさんと亡くなったご主人には男の子どもがいないせいもあり、ひーはそれはそれは可愛がられた。ひーの助言は愛情あふれた的確で素晴らしものだと思う。
ただ、割り切って考えられない、頭と心が分離して辛い、離れて暮らすまーとの温度差が悲しい。。たぶん、私にはきーの気持ちがひーよりもよくわかる。きーとまーがよく話し合って、方向性を決めることをただただ祈るだけである。
私の妄想は、母とえこおばが同じ施設で明るく呆けていくこと(^^;)
2014年02月11日
雪で所在が混乱する母!?
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ひーのメール
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大雪のため、予定を変更し、9(日)に母をお見舞い。転倒を心配したが、雪が結構溶けていて助かった。それでも雪が道路を覆っているところも 多く、安全のため、道路の雪が比較的少なかったいつものイタリアンへ。
雪のためか、母は自分がどこにいるのか多少混乱していた。海町にいるような感じでもあり、こちらに移動してきたのをわかっている感じでもある。同時 に「ココはりーの住んでいるところ」とだけ認識している感じでもあった。
樺太情報はあまりなし。ただ樺太に小学校1年まで行ったというのと、その小学校の生徒数は10名くらいだったというのは信用できるかも。東北ジッジのことはあまり記憶にないが、「ただただ怖かった」という負の思い出と、「家の中に汽車のおもちゃをつくって走らせてくれた」という正の思い出が 混在していた。
母が転倒しないよう、そのことに集中しすぎたか、ちょっと話がはずまなかった気もする。
昨日の母が気にしていたのは、いつも通り、東北情報。ちょっとこれを整理する必要があるかもしれません。
1.たー伯母一家---たぶんまだ仮設住宅住まい。娘は仙台。息子は両親と同居中か(?)。息子の結婚問題が母の最大の関心のひとつ。 彼の結婚式には、私が参加することを要請しています(笑)。
2.M叔父一家---仮設住宅住まい。娘3人。KちゃんとYちゃん、一番下の子は誰だっけ。Kちゃんは警察官と離婚。家で両親と同居 (?)。Yちゃんはたしか水産加工業者と結婚。下の子も結婚したような。
3.S叔父一家---えー叔母健在。たしか2人兄弟のお子さんあり。私は一度もあった記憶がないが。
昔町商店街についても整理の必要があるかも。
現存---T金物店、S屋、パーラーE
微妙---Hマート、F寿司
廃業---U山、O屋
誤認の可能性あり。適宜修正してください。
続きを読む2014年02月08日
樺太庁本斗水産学校など
ひーくん、ぶーくん
木曜は寒くて一瞬躊躇したのですが、母はとっても元気そうだったので、散歩&ラテしてきました。
樺太追加情報としては、
・T伯父は、真岡の水産高校へ通っていた:調べてみると真岡には水産学校はないので、「樺太庁本斗水産学校」かもね。
・東北ジッジと二人で電車でいった真岡では、洋服をかってもらったり、美味なものを食べた:T伯父とたー伯母は学校で、下3人はまだ小さく、母は就学前で調度よかったのかもね。T伯父は母よりも8歳上ということを考えても、母が樺太の小学校へ通っていたかは微妙。
・おばばの実家は米屋:おばばの実家→おばばの嫁ぎ先で、もと地主の家だったのかもね。
・阿幸村の家には、おばばがよくきていた:干しバナナはおばばの土産かもね。
・阿幸村の家は冬になると屋根まで雪があった
・角巻き(かくまき)は冬に着ていた。樺太犬は柴犬よりもコロコロしていた:このブログの写真を見せると思い出した様子。
さて、
近所病院への紹介状
が届きました。(紛失了承のうえで、郵送を頼み込んだのですが、一安心)
新たな年金証書
が届きました。平成8年にさかのぼって、消えていた「11か月分の厚生年金」が加算されたものらしい。ただこれだけでは、実際にいくらもらえるのかさっぱりわからず、ねんきんダイヤルに電話をしたところ、1)3月に直近5年の精算額について連絡がある。2)更に数か月後?にそれ以前の精算額について連絡がある、とのこと。まだまだ先は長いのでした(笑)
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