我が家のルーツ母を撃ったのはソ連か米軍か

2014年02月22日

思い出すと涙!の居候時代

ひーくん、ぶーくん

今日も母と散歩&MACラテ。引き揚げ時の話を再度聞くと、ソ連からの襲撃、母は小二というので「終戦直後の引揚」の可能性が高そうです。

ひーくん、
N町時代。樺太に比べて記憶がはっきりしている様子。土曜に行ってくれるそいうですね。訂正・追加情報があれば是非お願いします。


<人間関係>
F町のおばば家:おばば×(おじじ存命不明)、養女T代×夫、その息子(母の結婚相手だったかも)
F町の東北バッパ実家:東北バッパ母、東北バッパ兄×妻、その子3人位
F町の東北バッパ家(東北バッパ実家の納屋6畳に居候):東北バッパ、たー伯母、えこ叔母、S叔父(T伯父はI町魚加工所へ就職?)
N町のスズキヒデコ家:東北バッパ妹×夫(石切)、その子・N子達3人位、居候の母
O町の東北バッパ姉家:東北バッパ姉×夫(農家)、その息子1人、居候のM叔父

<位置関係>
F町→2.8km(徒歩40分)→N町→17.3km(徒歩3時間46分)→O町
F町→35.3km(徒歩7時間46分)→I町

<物語>
樺太から東北バッパ実家の6畳程度の狭い納屋に東北バッパと子供6人は身を寄せた。やり手のオババはF町でも漁業をやりだし、おばばやくらじが納屋にくると、東北バッパにお金や食べ物を渡してくれるのが、母は子供ながらに嬉しかった。東北バッパ母は食物を運ぶなど心を配ってくれたが、「また樺太へもっていったのか」と東北バッパ兄嫁に叱られるような戦後の厳しい食糧事情だった。

東北バッパはやむなく、長男・T伯父をI町魚加工所へでっちへ出し、母をN町の妹宅、M叔父をO町の姉宅へ居候に出し、幼児エッコとマサオの育児を10歳のチヨに任せ、東北バッパ自身はF町の海産物を捕り、それをO町の農家に嫁いだ姉のもとへ運び、米などと交換することで家族の糧を稼いだ。

小学校2年生から東北ジッジが帰ってくる5年生まで、N町の東北バッパ妹宅に居候することとなった母。石切で日銭を稼ぐ夫と母と同い年のN子を筆頭に3人の子供の5人家族もまた日々の食べるものに苦労する家だった。母にはN町での小学校には通ったのか通わなかったのか殆ど記憶がない。東北バッパ妹には、母は可愛い姪というよりも、厄介なクイブチに思えても仕方がなかった。

眠る時はN子と一つの蒲団を分け合った。でも、家族5人が同じ方向に枕を並べる中、母だけは逆向きで、肩が敷布団からも掛布団からも出てしまう。冬はせめて座布団でも欲しいと思ったが、そんなことは言い出せなかった。

家事もN子は何も言いつけられない。山の薪拾いも全て母。母は山で一人で薪になる木を探して拾った。自分しかする者はいないので、工夫してたくさん紐でしばって山をおりた。

でも、何より辛いのは、家族5人とは差別をされて、いつもひもじいこと。ある時、叔母がでかけた時に、高いところにおいてあったオヒツに手を出して食べようとした瞬間、忘れ物をしたのか戻った叔母に徹底的に怒鳴りつけられた。(この話を思い出した際に、母は涙!)

母の救いはN町の家のスグ上にあるお寺だった。叔母家には風呂がなく、このお寺さんのお風呂をもらっていた。お寺は檀家から貰い物が多い上に、広い畑をもっていて、常にふかし芋があるなど食べる物には不自由していなかった。10人くらいの子沢山でもあり、母が一人でも背中に背負い子守をしていれば、昼食・夕食を出してくれた。お寺さんでご飯を食べ風呂まで入って帰れば、後は寝るだけ。厄介者と冷たいそしりをうけずに眠ることができたのだった。

東北バッパがF町の海産物を背負って一日かけてO町に物々交換に行く際に、N町によって母も荷物を背負って一緒にいくことがあった。N町での日々が哀しくて辛くて、母東北バッパに泣く泣く打ち明けた。しかし、わが子の味方をしてくれると思っていた東北バッパに「妹の悪口を言うな」と一括されたことは本当にショックだった。その後、母は1度たりともN町の愚痴を東北バッパに言うことはなかった。

O町からは寂しく暗い道を4時間近くとぼとぼ帰る道だったが、O町に居候するM叔父は、東北バッパと母を見送るのが何よりも辛かったと言う。M叔父もまた、同い年の男子がいる家で相当苦労したらしい。母とM叔父、居候仲間の二人の絆は同じ兄弟でも強くなっていった。

 

読んでくださって、ありがとうございました



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