母自伝--1)樺太

2014年02月24日

ソ連に追われ、米軍に撃たれた

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ひーのメール
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今日もいつものイタリアン。風はやや冷たかったが、2週前と異なり、母の機嫌は上々。お見舞い前のハーモニカ演奏慰問がきいていたのかも。

今日は母は昔町時代のことを話したがった。「東北バッパは、生活保護をうけたことを義理と感じ、M叔父に『税金を払える男になれ』と教え ていたのに、嫁いでみたら、『借金はしても税金は払うな』という、逆の世界が待っていた」など、興味深い話を何度か。

母の話の中に、時々混じった樺太話。しつこいかもしれないが(笑)、私には興
味があるので、以下紹介。

1.「樺太を離れたのは、あたたかい時期だった」---6~7歳の子供に暖かいと感じられるのは10℃以上と推測される(今日の昼の温度が 10℃)。樺太で10℃を超えるのは『6月から9月』。この4ヶ月間のどこかで樺太を脱出した。

2.「樺太を離れたとき、街の人は皆残っていた。一足お先に、という感じだった。おばばの船1隻にのって、静かに真岡港を離れた。港に変わっ たことはなかった」---『母は真岡引き揚げの混乱を経験していない。』まさに、ひとあしお先に、の脱出だった。これにより、脱出は『終戦 前』と確定された。1とあわせて、1945年6月-1945年8月のどこか。

3.「脱出前、街の人はロスケ(ロシア人)が来ることを噂していた」---これにより、たいして目先がきかなくとも、「樺太が危ない」ことは 庶民レベルで認識されていたことがわかる。終戦前の脱出が不合理ではないことの傍証。そういうことになる原因は、1945年4月5日の『ソ連 による日ソ中立条約の破棄』と見るのが妥当。おばばもこれで、脱出を決意したのではないか?

4.「おばばの船は途中一回、大きな港、そうそう『函館』(この地名は、こんな感じで、母にしっかり残っていました)に寄って、米などを積み 込んだ。『この後』、飛行機からばりばりと銃撃を受けた」---これにより、『銃撃は函館まではくらわなかった』こと、言い換えれば、函館以 後(津軽海峡以東)で受けていたことが確定。終戦前にソ連軍が津軽海峡まで来ていることはありえない(もしそうなら、北海道は占領されてる (笑))ので、やはり、銃撃は北海道空襲の一環として米軍によって行われた。ゆえに日時も確定=やはり、7/14-15日。


今日の母の話を総合すると、「1945年の6月下旬か7月上旬、『終戦前』に、真岡港からおばばの漁船1隻にのって樺太を『一足お先に』脱 出。ところが、1945年7月の14-15日に、不運にも、(想定外の)米軍の北海道空襲とはちあわせ。函館以東で機銃掃射をうける」という 仮説に矛盾することは何もありませんでした。私の中では、何かケリがついた気がします。
  
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2014年02月23日

母を撃ったのはソ連か米軍か

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ひーのメール
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どうもご苦労さまでした。

同じ話をきいても、やはり、それぞれの関心のポイントは微妙にずれるものですね。たとえば、私は「母が銃撃されたこと」に強い関心がある。母 が覚えていないので、「いつ誰が撃ったのか」を自分で補い考えることが面白い。終戦直後の引き揚げなら、函館付近で母を撃ったのはソ連ではな く、アメリカの可能性大。りーやぶーには、「どちらにしても」の話かもしれないが、「下手人」は誰かは、はっきりさせたいと私は思う。

終戦直後であれば、手を下したのはアメリカ海軍第38任務部隊で、北海道空襲に使われた3,000機の艦載機の一機が母たちをおそったことに なる。当時、ソ連は函館まで飛行機をまわす余裕はなく(樺太侵攻の真っ最中)、母たちを撃てない。

結局、母たちは「ソ連に追われ、アメリカに撃たれた」と思われます。むろん、当時も今も、母はそう思っていなかったろうけど。

N町時代の話は、これまで断片的にきいていたものとよく整合する。どうもありがとう。ここで私が気になるのは、戦後闇市との関係。母の雄勝の 生活と戦後の闇市とがどう連関していたかが気になるところ。

明日は、施設長の依頼で、少し遅れて面会に行きます。11時すぎまでハーモニカの演奏会をやるそうな。また、イタリアンにでもいこうかな。
  
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2014年02月17日

雪で見舞中止

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ぶーのメール
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まさかの2週連続の大雪ですね。我が家の近所も路地にびっしり雪が残っており車がでれそうにありません。幹線道路に出てしまえば問題はなさそうなのですが、幹線道路にたどりつくまでの路地がひどく冬タイヤをはいていない我が家の車では無理そうです。

りーさんの家の近所の道路は大丈夫ですか。

そんな状況なので明日の訪問は中止させてください。
 
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2014年02月16日

母自伝「樺太編」完成

ひーくん、ぶーくん

昨日も散歩&ラテをして、母に「樺太編」の確認をしてもらいました。「その通り!よくかけている」とオホメノ言葉をいただきました(笑)
何かありましたら、率直なご意見をもらえたら嬉しいです。

そうそう、ひーくん訪問時の場所認識の混乱ですが、「雪景色で、樺太を思い出した」と言っていました。最近、樺太のことばかり話していたので余計に混乱したかもしれません。


母自伝「樺太編」

 北海道の北、凍てつく樺太にはアイヌなど先住民族がいたが、幕末以降、日本とソ連の取合いとなった。日露戦争後、日本の領地となった南樺太には、国の政策で北海道や東北から勇敢な開拓者が移り住み、昭和十年には三十万人を超える発展ぶりだった。

 樺太庁真岡支庁本斗群本斗町阿幸(おこう)。樺太では珍しく製紙工場を背景とせず、漁業を中心に発達した町だった。鎌倉時代に日時上人が日蓮宗布教に訪れた地であることが、後の一家の信心深さに繋がる。

 この阿幸の港前に、宮城県の漁師町から移り住んだオババは大きく立派な二階家を構えていた。家の一角は郵便局もかね、鰊や昆布を捕り内地へ運ぶ船も6艘あった。やり手のオババには子がなく、髪結いの亭主たる夫の妾が産んだ娘を養女としてはいたが、故郷・宮城から姪の東北バッパを呼び寄せ可愛がっていた。

 東北バッパは北海道出身の大工の東北ジッジと結婚して次々と子をなしたが、すぐに死んでしまった子もいて、母の8才上の長男T伯父を筆頭に、1才上のたー伯母、母本人、2才下のM叔父、4歳下のえこ叔母、6歳下のS叔父と3男3女がのこった。

 東北バッパ一家の家がオババの港の家からしばらく町へひっこんだ所に建てられた。家の一角では東北ジッジが木を細工したおもちゃや花を売っていた。氷点下何十度で年の半分も家は雪に埋もれたが、西洋式の大きなストーブがあって暖かかった。ラジオもあった。

 おそらくオババの援助が大きかっただろうこの家に、オババはよく来ていた。オババの手土産だったのか、家には美味しい干しバナナが度々あった。消防団長を務める東北ジッジが家の横にあった火の見櫓から、この黒いバナナをまくと、近所の子どもが競い合ってとりあったものだった。

 オババの船が昆布をとってくると、大きな昆布を一本一本船からおろし、港の砂利に広げるのが東北バッパの子供たちの仕事だった。目の前に広がる冷たい海で泳いだことはなかった。オババは母の働きぶりや気立てを気に入り今すぐ養女に欲しいと強く望んだが、東北ジッジは大きくなってからだと譲らなかった。

 東北ジッジは神社の境内で子供たちと相撲をとったり、家の中で手作りの木の汽車を走らせたり、母と二人で汽車に乗って真岡に子供達の洋服を買いにいくなど子煩悩な反面、家事に育児に店番に忙しい東北バッパが絶対服従する強く怖い人でもあった。

 オババの後押しで何不自由なく暮らす一家だったが、長男T伯父が本斗水産学校に通い、長女たー伯母に続いて母も家からそう遠くない阿幸国民学校に通う頃には、第二次世界大戦の暗雲がたちこめた。

 北樺太だけでは満足しないソ連の侵攻を恐れ、現金のほか全てを捨て、東北ジッジだけを残し、おばばの船底にオババ一家と東北バッパと6人の子供がかくれた。子供が泣く毎にソ連軍の銃撃をうけながらも、命からがら、函館を経由して、故郷・宮城に逃げたのだ。

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2014年02月08日

樺太庁本斗水産学校など

ひーくん、ぶーくん

木曜は寒くて一瞬躊躇したのですが、母はとっても元気そうだったので、散歩&ラテしてきました。

樺太追加情報としては、
・T伯父は、真岡の水産高校へ通っていた:調べてみると真岡には水産学校はないので、「樺太庁本斗水産学校」かもね。

・東北ジッジと二人で電車でいった真岡では、洋服をかってもらったり、美味なものを食べた:T伯父とたー伯母は学校で、下3人はまだ小さく、母は就学前で調度よかったのかもね。T伯父は母よりも8歳上ということを考えても、母が樺太の小学校へ通っていたかは微妙。

・おばばの実家は米屋:おばばの実家→おばばの嫁ぎ先で、もと地主の家だったのかもね。

・阿幸村の家には、おばばがよくきていた:干しバナナはおばばの土産かもね。

・阿幸村の家は冬になると屋根まで雪があった

・角巻き(かくまき)は冬に着ていた。樺太犬は柴犬よりもコロコロしていた:このブログの写真を見せると思い出した様子。



さて、
近所病院への紹介状
が届きました。(紛失了承のうえで、郵送を頼み込んだのですが、一安心)

新たな年金証書
が届きました。平成8年にさかのぼって、消えていた「11か月分の厚生年金」が加算されたものらしい。ただこれだけでは、実際にいくらもらえるのかさっぱりわからず、ねんきんダイヤルに電話をしたところ、1)3月に直近5年の精算額について連絡がある。2)更に数か月後?にそれ以前の精算額について連絡がある、とのこと。まだまだ先は長いのでした(笑)

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2014年01月31日

検査結果良好&樺太・阿幸村

ひーくん、ぶーくん

先々週の膠原病検査の結果を私一人できいてきました。良好ゆえ今後も検査だけなら近所の膠原病も診ている個人医院への転院の提案がありました。

状態が悪くなったら、また来ればいいとのこと。母の膠原病は大変良好で、大病院の人混みと手続きに疲れる様子ですし、専門医はもっと重症患者をみた方がよいと思うので、即決で転院することにしました。紹介状をかいてもらい、半年後の検査から新病院へ通います。調べたところ、良さそうで一安心。

よい結果を知らせにグループホーム川に行き、母と散歩&MACラテをしてきました。母自伝の修正&追加情報です。

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発端---はじまりは東北バッパ三姉妹。3姉妹の器量はよくない(笑)。東北バッパがその中ではまともだった。
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当時の東北バッパの仕事は、母をA会社に紹介したSさんのコネでセッケンの行商だった。
→引き上げの後の可能性アリ


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おばば---東北バッパ家のはすむかいに、「おばば」というやり手の女性が住んでいた。
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東北バッパと血縁関係はなし。
→東北バッパ母の妹、母の叔母。

おばばに旦那さんはいたが、子どもはなく、外にたくさん女をつくって浮気ばかりしていた。このおばばは、旦那さんのこともあったか、一念発起し、漁業+海運で成功。

たぶん海運関係で北海道-樺太と縁があり、北海道にいた東北ジッジ、かわいがっていた東北バッパとともに、6隻の船とともに、樺太の真岡で漁業+海運+郵便業務をはじめた。真岡の郵便局といえば有名な事件があり、おばばはこれにも関与していたかもしれない。
→おばばは東北バッパさんを連れて樺太の真岡ではなく、本斗町に吸収合併された「阿幸村」へ。船6、7隻でにしんや昆布をとり、内地へ運んで財をなした。おばばは村の港前に2階建の大きな家を構え、この家の一角で郵便局もしていた。

・樺太では珍しい、製紙工場を背景とせず、林業や漁業を中心として発達した町であった。
・日本人との関わりも大変古く、1295年日持上人が日蓮宗の布教活動の為に町内にあたる阿幸(ヤスノモルスキー)に上陸したと言われている。

母には工場やお寺の記憶なし。東北バッパはじめ一族が日蓮宗に熱心なのは、阿幸に由来するかもしれませんね。。


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真岡の母→阿幸村(おこうむら)の母
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あまり記憶はないが、東北ジッジは漁師相手の店をやっていた。手製のおもちゃも人気だったらしい。
→おばばの港の家から、町中へ少しいったところに、母が住んでいた家があった。母の家は1階建で、東北バッパさんが店をしていた。店では東北ジッジが作った造花やおもちゃなどを売っていた。この家を出て左にまっすぐいくと小学校があった。

家にはラジオがあった。干しバ ナナの記憶もある。これは結構裕福な証拠。
→家にはラジオ、西洋式ストーブ(樺太本のイラストで確認)があった。家の横には「やぐら」があった(東北ジッジが消防団長だから?)東北ジッジが近所の子どもを集めて、このやぐらから干バナナをまいた。東北ジッジは相撲も上手で、子どもたちと?神社で相撲をとったりもしていた。

幼い母は、真岡の海岸で特産品の昆布をひろうのが仕事だった。
→おばばの船がたくさんの昆布をもってくると、船からおろし、おばばの家の前に広げて干すのが仕事だった。おばばの家前は砂浜ではなく小石だった。海で遊んだ記憶はない。

おばばは母のことが気に入って おり、いずれ養子にと言っていたが、東北ジッジが「それは大きくなってから」ととめていた。
→上記その通りで、戦争がなかったら、違う人生だっただろうとのこと。東北ジッジも母を気に入っていたようで、母だけを連れて電車で真岡に買い物に連れて行った。阿幸駅から?真岡は大きな町でお店がたくさんあった。近所には露助(ろすけ:ロシア人への差別用語)も住んでいた。


2月も引き続き樺太時代をほりさげようと思いますので、ご協力をお願いします!


追伸:
ぶーくん、2/2予定通りですか? 母の欠食連絡もよろしくね。

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2014年01月29日

文学にみる樺太

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ひーのメール
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母の生誕地「真岡」は、日本文学にも痕跡を残している町です。たとえば、

1.岩野泡鳴
「 神秘的半獣主義」で有名な文人、岩野泡鳴がカニの缶詰工場をつくるため、真岡に渡ったことがある(1908年)。以下は伊藤整の「日本文壇史14」にある「泡鳴真岡行」部分の抜粋。

「...船から見ると、近くの山々はすべて低く、大きな木は見えず、山火事でもあったあとのように一面に青草が生え、所々に小さな木があっ て、その手前の海岸に板葺きの家々が並んでいた。...町を歩いてみると、海と並行した二本の通りがあり、その北の端に大きな缶詰工場があっ て、海辺に棄てられている蟹は足をのばすと四尺八寸ほどもある大きなものであった。家はみな簡単に板を内と外の両側から打ちつけてあっ た。...(日露)戦争後に日本領となったときに出来た家が八百戸ほどあるものの、いま人の住んでいるのは四百戸ほどで、寂れていた。緯度が 高いので、朝は3時頃から明るくなり、夜は9時になるまで日が落ちなかった。」
amazon 日本文壇史14


2.北原白秋
1925年、有名な詩人北原白秋は樺太観光団の一員として真岡に赴いている。以下は岩波の「フレップ・トリップ(北原白秋)」からの抜粋。

「真岡はアイヌ語のモウカである。「美しい波の上」という語義だそうである。...花野菜、千日大根、チサ、白菜、パセリ、にんじん、穀物、 豆類。海産物でははしりこんぶ(母が拾ってい
たのはこれ か?)、まだら、すけとうだら、からふとます、まぐろかぜ(ウニ)、それから花折昆布が目についた。...えび茶袴の二、三と逢ったが、着こなしがいかにも野暮くさ く、面相がいくらか内地とは違う...。真岡は原名エンルモコマブ、樺太西海岸での第一の殷賑な小都会で、ニシン漁で有名だというが、パルプ 工場以外、夏にはさして興味を惹く街でもなさそうに見えた...蠅がいること、蠅がいること。...いったい真岡という街が雅味のない街だっ たのだ」
amazon フレップ・トリップ

上の例だけでも、なんとなく、北の寂しい街としての真岡のイメージがつくような。私は高校~大学の頃、こういうものから真岡や樺太に興味をも ち、ロシア語も少しかじった。母の自伝がなーちゃん(ぶー息子君には、はやかろう)の興味をひくとよいと思う。

とりいそぎ「自伝」のご参考まで。日本文壇史(講談社)とかフレップ・トリップ(岩波文庫)とかは、ちょっと大きめの図書館にはあるんじゃな いかな。
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2014年01月28日

樺太の母


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ひーのメール
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いつものイタリアンで、母から断片的に聞いた話をまとめると以下の通り。

発端---はじまりは東北バッパ三姉妹。3姉妹の器量はよくない(笑)。東北バッパがその中ではまともだった。当時の東北バッパの仕事は、母をA社に紹介したSさんのコネでセッケンの行商だった。

おばば---東北バッパの家のはすむかいに、「おばば」というやり手の女性が住んでいた。東北バッパと血縁関係はなし。 おばばに旦那さんはいたが、子どもはなく、外にたくさん女をつくって浮気ばかりしていた。このおばば(りーの言う「大叔母」) は、旦那さんのこともあったか、一念発起し、漁業+海運で成功。たぶん海運関係で北海道-樺太と縁があり、北海道にいた東北ジッジ、かわ いがっていた東北バッパとともに、6隻の船とともに、樺太の真岡で漁業+海運+郵便業務をはじめた。真岡の郵便局といえば有名な事件があり、おばばはこれにも関与していたかもし れない。

真岡の母---あまり記憶はないが、東北ジッジは漁師相手の店をやっていた。手製のおもちゃも人気だったらしい。家にはラジオがあった。干しバ ナナの記憶もある。これは結構裕福な証拠。幼い母は、真岡の海岸で特産品の昆布をひろうのが仕事だった。おばばは母のことが気に入って おり、いずれ養子にと言っていたが、東北ジッジが「それは大きくなってから」ととめていた。

真岡撤退---母が数えで七歳というから、昭和19年(1944年)、おばばの船でおばば一族とともに真岡を撤収。真岡が1943年(昭 和18年)4月に 「樺太ニ施行スル法律ノ特例ニ関スル件」が廃止され、内地編入されたことが背景にあったのかもしれない。もしくは、戦局の悪化で疎開の意味あいが強かった のかもしれない。このとき、真岡の消防団長をしていた東北ジッジは残留。撤収組の中では、比較的条件がよい組か。後に母が、「小学校に、遠足でもないのにリュックサックをもってきて」と豆腐屋のM君にいじめられたが、その因縁のリュックサックは、この引き揚げ時からの お友達。

真岡からの撤退ルートは、真岡→函館→東北町。函館近辺で例の機銃掃射。「まるで、妹と弟の泣き声を狙っているかのようだった」との弁。 勿論、母はバリバリドカドカという音を聞いただけで、飛行機は見ていない。船倉の下で固まっていた。

・・・
  
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