母自伝--3)東北I町

2014年09月13日

納豆売りにあけくれた小中学校

ひーくん、ぶーくん

今日の母は「中の中」。散歩してMACでラテを飲みながら、「東北I町編」を読み上げたところ、新しい話2個追加。文章も少し修正しました。次回からS商店時代に入ります。

・えこ叔母が試しにした納豆売りの売上や給食費でパンを買ってしまい、東北バッパが泣いたこともあった
・生活保護を役場にもらいに行くのは母とM叔父の屈辱的な役目だった

そうそう、私がとある同僚にチクチク嫌味を言われている話をすると、嬉しそうに貴重な助言をしてくださいました。「10聞かれたら、2以下で控えめに答えるべき!根堀り葉ほり聞くけれども、自分のことは話さない人には要注意!」流石、人生相談の先生(笑)

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納豆売りにあけくれた小中学校
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 昭和24年の樺太庁廃止の影響か、母小五の夏、東北ジッジが樺太からもどり、一家は石巻へ。長男T伯父が勤める加工所の空いた納屋に、両親とたー伯母を頭に5人兄弟の計7人が住むことになった。納屋は手を入れて二部屋と台所のほか、、屋根の下にはドラム缶の風呂、ほったて小屋に便所があった。

 東北ジッジは樺太でのように子と遊ぶこともないどころか、威厳があって母は直接話した記憶も殆どない。樺太からかなり衰弱して帰ったのかあまり働けず、死を予感していたのか、東北バッパが前の加工所で働く給金もなるべく貯め、まもなく死んだ。

 一家の生活は更に苦しくなった。東北バッパはニコヨンと呼ばれた日雇いの土方で稼ぎ、家の周りにくまなく畑をつくり、便所の糞尿を運んで野菜を作った。ガタイは日に日によくなり、普通の服は入らない。いつか母に服を作って贈ると母は心に誓った。

 たー伯母は家事をし、幼いえこ叔母とS叔父の面倒をみた。母とM叔父は毎朝・毎夕の納豆行商で生活のたしを稼いだ。母の中学卒業するまでの生活は、朝の納豆売り、朝食、学校、宿題まる写し、夕方の納豆売り、夕食、2、3日に一度ドラム缶風呂。

 納豆売りは、お隣りが近所へ引越して納豆屋を始めたことで始まった。朝起きると母とM叔父は、各10個を仕入に行った。納豆一個7円を10円で販売し、完売なら30円の利益。朝だけで完売は難しく、残ると夕方に売る。時に社員寮などが10個全て買ってくれると何よりも嬉しかった。つぶれて売り物にならない納豆があると、その一個に畑の白菜などをいれてかさを増やし、家族全員で分け合った。

 育ちざかりの兄弟はいつもひもじかった。夕食もお味噌汁とご飯だけ。えこ叔母が試しにした納豆売りの売上や給食費でパンを買ってしまい、東北バッパが泣いたこともあった。前の加工所へ魚が運び込まれるときには、母とM叔父は石を並べ、台車が揺れて魚が落ちると即拾った。世話になってばかりのお寺や近所へのお遣い物や、豪華な夕食のおかずになることもあった。

 小学校に通うものの、行商は大変だし、パンの給食だけが楽しみで、勉強はさっぱりわからない。近所の頭のよいIちゃんが遊びに来て宿題をするのを母は何一つ理解せず丸写しするだけだった。それに、貧乏な母は何かといじめられた。豆腐屋のMは、母がランドセルではなく、引上時のリュックで通うのを「遠足じゃないのに」といじめた。

 ドラム缶風呂のマキをどこからか拾ってきてわかすと、お風呂のない人ももらいにきた。マキや何かをお礼にもってきてくれるので、むしろ大助かりだった。

 東北バッパは船乗りでいつも留守の弟家族を田舎から近所へ呼び寄せていた。弟の妻と子供5人、東北バッパは貧しいながら、何かあるとこの家族にもわけた。しかし、この義妹とT伯父がいい仲となってしまい、東北バッパは親戚や近所に顔向けができず、隠れて泣いた。母は東北バッパを泣かせるT伯父を許せなかった。

 貧乏変わらず、生活保護を役場にもらいに行くのは母とM叔父の屈辱的な役目だった。そんな中、中三となったたー伯母が修学旅行で東京にいくため、お金をかき集めて旅費をだし、小遣い150円をもたせた。たー伯母は初めて持つ大金に浮かれ、全てを使い果たした。東北バッパは「なぜ使ってしまった」とたー伯母をゆさぶりながら泣いた。たー伯母が唯一持ち帰った黒いバナナ1本を東北バッパは均等にわけて子供たちに配った。母はこのバナナの美味しさは忘れることができない。

 翌年は母の修学旅行だったが、一年ではお金が貯まるはずもなく、修学旅行に行けなかった。中学校三年生約350人のうち、修学旅行に行けなかったのはわずか6人のみ。この6人は先生に連れられ日帰りで県内の大きな市へ行き、百貨店などをぶらぶらした。母は「いつか東京に出てやる」と強く決意した。
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2014年09月09日

イタリアンでインタビュー

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ひーのメール
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小雨のぱらつく中、冷やし中華にしようと思ったH屋で冷やし中華が終了していた。そこでいつものイタリアンへ。今日のケーキはフルーツタルト(母選択)。しかし、ぶどうが酸っぱいとちょいと不評。しかし、ナポリタンはいつも通り完食。フルーツタルトも、結局は完食。まずまずか (笑)。

さて「自伝」関係では、少し時期は前後するが、A会社奥さんに「東北バッパ家には 色情の因縁がある」と言われ、東北バッパに「どういうことだ!」 と電話でか みついたという話が出色でした。ここから、話をひろいはじめていくと、女癖が わるいのはT伯父だけではなく、(1)夕方、風呂に 入ってどこへともなく出か けていくことが多かった東北ジッジ、(2)T伯父ほどではないが、M叔父も 女で東北バッパを苦労させたなど、男は壊滅状態(笑)。

しかもA会社とりもってくれた「Sさん」の縁で働いたS商店(果物屋+やきいもの販売)の若旦那も、「百姓あがりの奥さん」 をそっちの けで、愛人のもとに入り浸り。「背が高くて、かっこよく、メガネをかけたダン ディなので仕方ないが、こんなことをするダンナの下 に、このままいてはダメだ」と決断した母は、A会社へGO。しかし、S商店も、給料なしにもかかわらず 懸命に働く母にやめてもらいたくなかっ たらしく、東北バッパが何回か日参してやっと許可をもらったとのこと。

S商店時代では、焼き芋を港に配達するとき、実家の前を通れるのが嬉しかっ た。自転車から「かあさ~ん」と呼ぶと、東北バッパが「どうし た?」と尋ね る。「港へ配達だよー」と母が答える。このわずかなやりとりが心の慰めだった という。映画のような、非常に美しい場面ですなあ。

腹減らし関連では、東北N町オバとのやりとりが強い印象。ある日、母は飢 えに耐えかね、おばの外出中に、米びつをあさり出す。しめた、も う少しだと 思ったところで、がらりと戸があいて、帰ってきたオバの一喝、「何してる!」 いま思い出しても、背筋が凍る。とにかく、 このオバは好きになれ なかった。東北バッパに訴えるも、「私の妹を悪くいわないで」とぴしゃり。私の味方だったはずなのに、と母は強い ショックをうけた。以来、母は、オバのことを東北バッパに相談することはなかったという....。

色欲、食欲が乱れ飛んでいた母の子供時代。しかし、同時に、人の関係は強固 で、美しくもあった。これは、エッセイよりも、絵画の方がうまく 表現できる 主題かもね。

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2014年09月06日

母自伝:東北I町編

ひーくん、ぶーくん

昨日の母は中の下、とぼとぼ歩く姿に、久々に自伝インタビュー再開。MACでカフェラテを飲みながら、1.5時間じっくりと語ってくれました。

ひーくん、
今週末に母を見舞った際には、下記の追加や次章「S商店」の話がきけたら是非教えてください。

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東北I町編 
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1949年(昭和24年)6月1日の樺太庁廃止と真岡町廃止の影響か、母小五の夏、東北ジッジが樺太からもどり、一家は東北I町へ。

長男・T伯父が勤めるA加工所の空いた納屋に住むことになった。納屋は手を入れ、2部屋と台所、屋根の下にはドラム缶の風呂と、ほったて小屋にトイレ。ここに、東北ジッジ・バッパ・たー伯母を筆頭に5人兄弟の計7人。東北ジッジは引き上げ前のように子供と遊ぶこともないどころか、威厳があって母は直接話した記憶もあまりない。樺太からかなり衰弱して帰ったようであまり働けなかったらしい。死を予感していたのか、東北バッパが目の前の加工所で働く給金もなるべくため、まもなく死んだ。

一家の生活は更に苦しくなった。(月々3千円の生活保護をもらう。これは屈辱的だった。その後、A会社に勤務したときに、500円の月給のうち、「お世話になったものです」と無記名の封書で2~300円を東北I町の役場に毎月送金した。無記名とはいえ、消印や状況から母の仕業ということはバレバレだった。後にこの件で、東北バッパさんにほめられた。)

東北バッパは「ニコヨン(日給240円)」と呼ばれた日雇いの土方で稼ぎ、家の周りに畑をつくり、糞尿を運んで食料のたしを作った。ガタイがよくなり、普通の服は入らない。いつか、東北バッパに服を作って贈りたいと母の気持ちが固まる。

たー伯母は家事を引き受け、えこ叔母・S叔父の面倒をみた。母とM叔父は毎朝・毎夕の納豆の行商で生活のたしを稼いだ。母の中学卒業するまでの生活は、朝の納豆行商、朝食、小学校(パンの給食あり)、宿題まる写し、夕方の納豆行商、夕食、2.3日に一度ドラム缶風呂。

納豆行商は、納屋の隣に住んでいた人が徒歩10-15分へ引越し納豆屋をはじめたことによる。朝起きると母とM叔父は、各自10個ずつ仕入(単価7円)、10円で販売して計30円の利益。朝だけで10個を売り切ることは難しく、残ると夕方に売る。ごくたまに加工所の寮のようなところが朝10個全て買ってくれることが何よりも嬉しかった。つぶれて売り物にならない納豆1個に、畑の白菜などをいれてかさを増やし、家族全員の朝食のおかずにした。

とにかくいつもひもじかった。夕食もお味噌汁とご飯だけ。目の前の加工所へ台車で魚が運び込まれるときには、M叔父とともに石を並べて、魚がおちるようにした。落ちた魚は普段は世話になってばかりのお寺や近所へのお遣い物となるほか、豪華な夕食のおかずになることもあった。

小学校に通うものの、貧乏な母は何かといじめられた。豆腐屋H君は、母がランドセルではなく、リュックや風呂敷で通うのを「遠足じゃないのに」といじめた。行商は大変だし、勉強はさっぱりわからない。学校から帰ると近所の成績のよいIちゃんが遊びに来て宿題をするのを、母は丸写しするだけだった。

納屋の屋根の下に設けたドラム缶風呂のマキもどこからか拾ってきた。お風呂をわかすと近所のお風呂のない人ももらいにきた。マキや何かをお礼にもってきてくれるので、むしろ大助かりだった。

東北バッパは弟家族を田舎から自分の近所へ呼び寄せていた。弟は船乗りでいつも留守、弟の妻と、娘4人と息子1人。東北バッパは貧しいながら、何かあるとこの家族にもわけた。しかし、この義妹とこともあろうか長男・T伯父がいい仲となってしまい、東北バッパは親戚や近所に顔向けができず、隠れてどんなにか泣いていた。母は母を泣かせるT伯父を許せなかった。

貧乏な中、たー伯母は中3の修学旅行で東京にいくことになった。家中のお金をかき集めて旅費をだし、たー伯母には小遣い150円をもたせた。たー伯母ははじめてもつ大金に浮かれ、全てを使い果たしてもどった。東北バッパは「なぜ使ってしまった」とたー伯母をゆさぶりながら泣いた。たー伯母がお土産としてもって帰った黒いバナナ1本を東北バッパは均等にわけて子供たちにくばった。母はこのバナナの美味しさは忘れることができない。

たー伯母の1年後が母の修学旅行。1年ではお金がたまるはずもなく、母は修学旅行に行けなかった。1クラス70人くらいで5クラス計350人のうち、修学旅行に行けなかったのはわずか6人のみ。この6人は先生に連れられ県内の大きな市に日帰りで行った。母は「いつか東京に出てやる」と決意した。(この同じ中学の同学年で別のクラスだったTさんが昔町の近所に引っ越してきたときには本当に驚いた。別のクラスだったのでいじめられたこともなかったのはよかったが、お互い何となく気まずかった。)

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